Poderi Aldo Conterno (アルド・コンテルノ) 訪問 2/3

Giacomoさんに導かれ、“Poderi Aldo Conterno(ポデリ・アルド・コンテルノ)”のセラー内部を見学。
※ NO Flash だったので暗い写真が多いのは、ご容赦願いたい。

セラー入り口の大広間

そこは、古き伝統を今に伝える「ピエモンテの民芸館」と呼ぶべき、展示内容だった。

圧搾機
圧搾機拡大写真
セラーのガイドをするジャコモさん

まず、セラーの入口をくぐると、大きな一室に、使い古された、巨大な木製の圧搾機が、いくつも配置されていた。
まるで中世の拷問器具のように厳く、重厚なものばかり。

どれも、ランゲ地方で実際に使っていたもので、それぞれ「1878年」「1886年」の刻印が押してあるものがあった。

木桶とバローロの展示
古いガラス瓶と木製の手押し車
破砕機
古い酒瓶が飾られた扉
藁ぶきのボトル
使われなくなった古いスラヴォニアン・オーク

実際に、当時のワイン農家の人たちが使っていた、大樽や破砕機などの醸造器具。 籠や瓶といった小物も、うまくレイアウトされている。

農耕馬(ロバ)で畑を耕すのが当たりまえだった時代に、山賊の恐怖に怯えながら、アルバの街へ馬車でワインを売りに行っていた、貧しい農民達の生活を、雄弁に語っていた。

檻に入った古い巨大ボトル

檻に投獄された(?)巨大ボトル、に遭遇。
このボトルを横目に、セラー奥深くへと通じる、長い廊下を歩いていく。

地下へ続く廊下は、奥へ進むにつれて、緩やかに下って行く。

奥へとつながる廊下

漸く突き当ったと思うと、更に階段を下る。
更に地下深くへとつながる階段

一体どこまで広いのか、体感的な距離感がおかしくなってしまった。

アルド・コンテルノのヴィンテージボトルの山

さらに階段をおりると、古びたバローロのボトルが頭上に並べられている扉に遭遇。
おそらく、クリュの概念が、まだ明確でなかった頃のワインなのだろうか?

更に下へと続く螺旋階段

階段は、更に下へと続く。

バリックルーム

前記のバローロが並べられた扉をくぐると、広大なバリック(小樽)ルームとなっていた。
実際の樽熟中の状態の物だけでなく、包装紙が付いた、未開封のままのフレンチ・バリックも、整然と並べられていた。

オーストリア産大樽
無数のオーストリア産大樽

導入以降、着実に実績を出しているという、オーストリア産の大樽。

「 伝統的な Slavonian 0ak(スラヴォニアン・オーク)使用」と言いながらも、堂々と外国産の大樽を導入し始めている事は、実に興味深い。

バリックを使用しているピエモンテの生産者の多くが、フランスから樽を買っている訳なので、醸造している側の立場からすれば、特に抵抗もないのかもしれない。

「クリーンであること」「クリーミーであること」を重視しているアルド・コンテルノ社では、7~8年で大樽を交換する。

「どっかのセラーのように、何十年も汚い大樽を使い続けるなんて、ありえない」と、Giacomoさんは、微笑みながら、キッパリ言い切った。

これは、瓶内熟成中のバローロが収められた、コンテナ。

瓶内熟成中のワイン
ボトル・エイジング・ルーム

「圧倒的じゃないか、我が軍は!」と、どこかのアニメの名台詞が聞こえそうな笑みを、Giacomoさんが浮かべている!

同社の強いブランド力を考えれば、もはや単なる在庫ではなく、立派な「金融資産」だ。

換気溝

昔の雨戸を思わせる、この木製の扉は、外気を取り込み、地下の湿度を調整するための換気口である。

伝統的なランゲの造り手達は、地下深くに貯蔵設備を作っているところが多い。

このような換気口を設けたセラーを、実に多く目にする。

こちらは壁に掛っていた、1960年頃の写真。

同社の古い写真

今から約50年前の写真。 昔のキャンティのフィアスコ・ボトルのように瓶が藁で覆われている。
ピエモンテ州にでも、広く流通していた様子が伺える。

古いリヤカー

更に奥の部屋へ進むと、馬車を引き、街にワインを売りに行っていた当時のリヤカーが、陳列されていた。
随分、細長い樽に入れてワインを運んでいたんですね。

原始的なボトリング・マシーン

リヤカーの上部には、古典的な瓶詰め機が、吊り下げられている。
また、部屋の一角には、セラーの入口で見たような、使い古された木樽や、スコップのような工具類が置かれていた。

古い木桶や農作業具

極めつけはこちら。
ボトルと古い樽の大きさの対比
古い樽が薄くスライスされている

真っ黒になるまで使われていた、当時の大樽。
樽の正面だけが、薄くスライスされている。

ボトルとの対比を見れば、この樽の巨大さが、よくわかる。

以上、一通り、骨董品のコレクションを拝見させて頂いた。

大きな成功をもたらしてくれた、ランゲ地方の文化と伝統に対して、とても深い敬意を抱いているということが、よく理解できた。

(つづきます)


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